「三ヶ月」(みこぜ)という地名の由来は諸説ありますが、『松戸市史』によれば、平安京をつくった桓武天皇の血をひく中世の房総半島を中心に栄えた大豪族千葉氏(下総初代守護:千葉常胤)により下総の領地を治めてきた、千葉氏の家紋(月星に由来する家紋)の月の形から三日月を地名にしたことが有力とされており、中世から「ミコツキ」・「ミコツイ」とも呼ばれ、後に訛って「ミコゼ」と変化したと云うことです。
  三ヶ月では、スイカを作らない風習(切った形が三日月の形になるので)になっておりますが、食することは関係ないようです。

 
 三ヶ月には、鎌倉時代(建長八年、一二五六年)、千葉氏七代当主千葉頼胤が小金(今の馬橋の地ではないか?)に居館を構え小金屋敷といわれる三ヶ月馬橋城(みこぜうまはしじょう)を築いたと言われております。詳しい居場所は不明ですが、字名から蘇羽鷹神社周辺から今の鉄塔通りにかかる広い範囲にかけてではないかと記されています。その他の説では、聞き取りでは三ヶ月の消防団センター南側に「城山」という屋号を名乗っている家名があり、その場所が城の中心であったという伝説もあります。
 
 文明十年(一四七八年)千葉氏十七代千葉孝胤は、太田道灌との戦い「境根原(酒井根)の合戦」に破れ三ヶ月馬橋城は廃城となり当時の城の石垣は、馬橋の萬満寺に移されたということですが、幾度の火災で今は確認が取れません。
 
 
 




《 三日月神社 》
 
 三日月神社の始まりは、寛延四年(一七五一年)三ヶ月村の人たちの拠り所として、三ヶ月の村人が山岳信仰として知られる山形県の出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山)を信仰し、夜と月の神様である月読命を祭神とする主峰のひとつ月山(標高1984m)を崇めたのが始まりで、月山の御霊の入った神石を背中に背負って持ち帰り三ヶ月村に祀ったことが起源とされております。(右写真)
 月読命は、天照大神(姉神)の弟神で『日本書紀』の中でも日本神話として記されていますが、姉神と弟神は意見の相違から別々に住みようになり日月分離の神話として昼と夜が出来た起源となったエピソードがあります。

《 三日月大朋神石碑 》
 

 現在も本殿の裏には、「三日月大朋神」(明を朋としたのは姉である日神、天照大神と二分していたので日を月と表したのではないかと思われます)と彫られた石像があります。この石像が祀られた時が三日月神社の起源とされております。神社北側には、天神構(学問の神様 菅原道真)も祀られており区画整理の時、地元の家(寛延三年起源)に祀ってあった石像を奉納したそうです。毎年命日の二月二十五日には、決まって地元の人によりお団子が供えられています。 (右写真)


《 天神構 》
 
 
 三日月神社本殿には、昭和十年に増尾在住の宮大工さんの手で改築され、萱葺だった屋根を日本瓦に葺き替えました。そのとき御霊の入った丸い鏡を祀ったとされています。
 また、寛延から昭和三十七年までは、現在の丸紅松戸社宅一号南側に位置する山の上に存在しており、その年に既存のまま現在の場所に移築されました。(右写真)

《 三日月神社改築記念碑 》
 
 
 代々受け継がれてよく聞く風習としては、昔は、何処の国も貧しくそして医者も少なかった時代に病気を患った村人達は、神様にすがるしかありませんでした。
 特に深刻だった癌病(子宮癌・子宮筋腫など)や皮膚病(はれもの・できもの)に悩み三日月神社に治癒のお願いをするしか術はありませんでした。
 病に苦しみ祈願した甲斐あってご利益があった人たちは、当時お供え物がなかった時代でもあり、神社の周りにあった杉の葉を取りその上にお豆腐をのせ心を込めて供えたと言い伝えられております。
 今でも習わしとして行われております。
 
 また、昔から子供が生まれ「お宮参り」をする際には、重箱に赤飯を詰め三日月神社に氏子として参拝し杉の葉に赤飯を供え、帰る途中行き会った人々に赤飯を分けてお祝いしたそうです。今でも、その風習は残っており「お宮参り」の祭は、専属の神主さんはおりませんが、資格をもった神職がおりますので申し込めば祈祷していただけます。
 

《 安産と防災信仰の石碑 》

《 弘法大師御人定記念碑 》
 
記、  川津 寛
 
参考資料 「松戸市史新版松戸の歴史案内」(松下郁夫著)
       「平凡社 日本歴史地名大系」
       「角川書店 日本地名大辞典」
協力    松戸市立博物館・萬満寺
       馬場 烝治・柏木 一朗