勤皇志士「赤報隊」  竹内廉之助
 
第一部 「我こそは、竹内廉之助にあるぞ」
 
 天保九年(一八三八年)、竹内廉之助は水戸街道の小金宿(現松戸市小金)の商家「笹屋」竹内貞吉の長男として生まれる。幼いころ父、貞吉を亡くし二歳年下の哲次郎とともに母たきに、厳しく育てられた。
 
 嘉永七年(安政元年、一八五四年)部分的開国日米和進条約により徳川幕府は権威弱体の一途を辿り、尊皇、攘夷、開国、倒幕といった天下国家の一大事を論じる時代が訪れるのである。
 安政三年(一八五六年)、竹内廉之助十八歳。
学を葛飾郡松ヶ崎(現在柏市松ヶ崎)出身の、芳野金陵に学び、剣法をお玉ヶ池の千葉(道三郎)道場において修業、後に北辰一刀流を皆伝する。
 
 幕政が変化し始めた安政七年(一八六〇年)安政の大獄で過酷な処分を受けた水戸藩・薩摩藩の浪士たちが江戸城桜田門外で大老・井伊直弼を暗殺した。
  千葉道場の千葉道三郎との関係から廉之助と弟、哲次郎は水戸藩内の急進派と交流を深め元治元年(一八六四年)天狗党の挙兵に参加。
  弟、哲次郎は幕軍に追われる身となり負傷。最期は、霞ヶ浦の船上にて自刀、霞ヶ浦に身を投げ、遺体は茨城県麻生町岸に辿り着いたと伝えられる。その場所には、心ある村人たちにより埋葬され石碑が建てられたという。 竹内哲次郎享年二四歳。その後、朝廷は殉難者として追録し、明治二八年十一月二十二日、靖国神社に合祀され、大正七年十一月十八日政府より従五位を贈位された。
  また、廉之助は、幕府代官佐々井半十郎に捕えられ土浦にて投獄され、約一年(推定)後に謹慎を命ぜられ帰家して結婚。二人の子供を授かる。
   

《 小金「東漸寺」にある石碑 》

《 小金「東漸寺」にある記念碑 》
 
 近代日本の幕開けとなる慶応三年(一八六七年)十月十四日徳川幕府最後の将軍第十五代、徳川慶喜が大政奉還を行い政権を朝廷に返上した。 この奉還により、慶喜は賊軍として討伐することの出来ない状況をつくり新たに成立する京都政権の首相格として任命される状況までもつくり上げたのである。薩摩側は、討幕勢力はこの状況では敗北すると察し、旧幕府勢力を挑発し武力をもって徳川を消滅させようと策謀するのである。
  薩摩藩によって浪士達を集結するのであるが、廉之助はこの時、家族に別れも告げずひそかに家を脱出し、後の赤報隊隊長となる相楽総三とともに江戸の三田にある薩摩藩邸に参上した。
  この年の十二月、薩摩長州に不穏な動きあると見た旧幕府側は浪士討伐の令を出し庄内・松山藩による薩摩藩邸の焼打ちを命じ、廉之助たちは、旧幕府軍に追われる身となり急ぎ江戸より薩摩藩の船にてゆうゆう京都へ入り、薩摩の拠点となる東寺に西郷吉之助を訪ねた。西郷は、薩摩藩邸の焼き討ちにより「これで戦端を開く理由となった」と労をねぎらい討幕の大義名分を得たのである。
第二部 「赤心をもって国恩に報いる」
 
慶応四年(一八六八年)正月 「鳥羽・伏見の戦い」
 慶喜を擁する会津・桑名の藩兵一万五千は、一月三日京都に進撃を起こし、薩長側は、鳥羽・伏見において、わずか五千の兵でむかえうつのであるが、薩長軍はたちまちにして旧幕府軍を撃退した。この時、伏見奉行所の「新撰組」とも一戦を交え撃退した。
  この鳥羽・伏見の約五日間の戦いの結果、朝廷内の公議政体派の勢力は没落し、討幕派が勝利した。総裁熾仁親王は、一月十日、旧幕府領を天皇の直轄地とすることを公示する。
 
一月六日、官軍となった討幕軍は朝敵慶喜追討の命を受け、艦船で江戸に逃亡した慶喜や佐幕軍を討伐するため、官軍本隊に先立ち各地の情報の探索や勤皇誘引活動を任務とする先方隊を結成するのである。
 
 そして、慶応四年一月八日、近江の松尾山金剛輪寺において、公家の綾小路俊実(あやのこうじとしざね)・滋野井公寿(しげのいきみひさ)を擁立する東征軍を旗揚げした。
 
 この先方隊が、相楽総三を隊長とし竹内廉之助が幹部となる、 「官軍赤報隊」である。
この時からか定かではないが、竹内廉之助は「金原忠蔵」と名乗り、金原の名は、故郷「小金原」からとったものとされる。
 
 軍赤報隊は、岩倉具視、西郷隆盛の支持を受け薩摩藩からは、金、百両と小銃百挺が支給されたという。
 
一月十二日、隊長となる相楽総三はこれを機に太政管宛に建白書と嘆願書を提出する。
内容は、官軍としての「官軍之御印」の下賜と、建白書として「幕府領の年貢の軽減」を訴えたものあり、この建白書に対し朝廷は、世に有名とななる「年貢半減令」を布告することになるのである。
  一月十五日、先遣隊として、薩摩藩江戸浪士隊で金原忠蔵が所属する、一番隊(先陣相楽派)、後発の二番隊(君側綾小路派)、三番隊(後詰)に編成され、「年貢半減」の高札を掲げながら二百とも三百ともいわれる隊員構成で、東海道を目指すが三重県の桑名城においては戦わずとも官軍の手に落ちるとの確信があり、先に甲州を鎮める作戦をとり、信州・甲州方面に進路変更し進軍して行く。
そのまま一番隊は、民衆を味方にして、中には赤報隊に共鳴し、入隊する者もでるようになり赤報隊の勢いはますます大きなものとなっていったとされる。
第三部 「偽官軍赤報隊」の汚名
 
一月二十五日、綾小路俊実・滋野井公寿両卿率いる二番隊・三番隊は、信州進軍を断念し、東海道へ進路を移した。
 その状況変化の内容は、都ではこの頃より、関ヶ原に近い松尾山に滞在する赤報隊と称する者たちが、強盗したとか、民家を襲っているとか、赤報隊は都方の官軍本営の命令を無視し進軍しているといった「赤報隊」に対する悪い噂が広がりはじめていた。 情勢の変化を見通した官軍本営は、東海道軍への合流命令を下し先発する一番隊の相楽隊長にも使いを出すが、相楽はこれを拒否しそのまま信州方面に進軍する。
 この噂は、実は新政府軍が政治転換のため意図的に流したのである。年貢半減免除の許可を布告したが、折りからの財政難に租税を減免することは新政府の財政に負担が大きくのしかかる。相楽に与えた租税免除を一切取り消さなければならないと考え岩倉具視と幕僚は、民衆と結びつき始めた危機感から相楽総三を隊長とする「赤報隊」は犠牲となるべく偽官軍とする政治手段をとってゆくのである。
 
一月二十八日、翌日の二十七日名古屋入りした綾小路、滋野井両卿は、新政府より至急帰還命令を受け、一番隊の相楽にも再度、綾小路の名で帰還命令を下すのだが、一番隊は、関東の情勢は一刻も猶予すべきではないと正当性を信じ、ついに帰京せずとの回答を出し二月五日には下諏訪に到着するのである。
 
二月十日、新政府はひそかに信州諸藩に対し偽官軍赤報隊への攻撃命令を下した。
  相楽と行動を共にした金原忠蔵(竹内廉之助)を長とする約十名の別働隊を結成し情報収集のため先発した。
第四部 「金原 忠蔵の最期」故郷を思う
 
 二月十七日、忠蔵部隊が信州の追分宿に到達したことを知る小諸・上田・御影の諸藩の軍約二百名は、宿泊先の大黒屋(旅館)に滞在する先発隊を偽官軍と信じ急襲した。
  多勢政府軍に対し約十名の部隊で防戦に望んだ忠蔵率入る部隊は、その場で息絶える隊士や負傷し捕縛される隊士があったと伝えられている。
 
 時に急報を受けて、碓氷にいた伊勢出身、西村謹吾(山本鼎)二十五歳と秋田出身、大木四郎(大樹匡)二十歳両名率いる二十数名の隊士が追分に駆けつけた時には、金原忠蔵すでに鉄砲に打たれ重傷を負っていた。
  忠蔵は、大木四郎に次のような遺言を残したという。
 
 「この傷では生きのびることはできない。念願であった王政復古の大業完成を見ずしてここに果てるのは残念である。しかし、今日まで幾度となく生死の境をさまよったがこれは決して私のためではなかった。すべて国を想うの誠心からであった。短かった三十一年の生涯も無為にして老いたるよりは優る、このことだけは会心の至りである。我首を落し、この場所に埋めて母様家人に最後を伝えてもらいたい。そして、二刀を自分の児たちに授けてもらいたい。」
  慶応四年二月十八日の朝、大木四郎隊士に遺言を托し、介錯をもって金原忠蔵こと竹内廉之助は、三十一歳の若さで信濃追分に眠る。
 
 同じくして、隊長相楽総三他、赤報隊の志士たちは、三月三日氷雨降る下諏訪の地で処刑されるのである。
 
 この時代、誰よりも国のことを想い未来に希望をもった志士たちがなぜ罪人同様にしたてあげられ散っていったのか感慨無念である。
 そして、激動の末、明治の時代へと移っていった。
 

《 軽井沢追分郷土館にて
  竹内氏と(右2番目) 》

《 郷土館に寄贈している廉之助?の甲冑 》

《 「竹内廉之助写真展 》
合 掌
記、幕末の志士 「赤報隊」新松戸研究会  川津 寛
 
参考資料 竹内 能一氏 談話及び資料提供 松戸市史
協力 松戸市立博物館 柏木 一朗氏